2016年御翼5月号その1

日本人に福音を伝えるには―― 新渡戸稲造(にとべいなぞう) 

 イエス様は、ご自分が幽霊などではないことを弟子たちに分からせるため、わざわざ焼き魚を食べられた。日本の人たちにキリスト教を伝える場合も、イエス様のように、相手が分かりやすいように、その教理や福音を提示すべきである。例えば、「お客様は神様です」と言った場合、西洋的には「異教的だ」と非難しがちである。しかしイエス様は、「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)と言われた。商売のためなら方向性が異なるが、イエス様は神の子であるから、人をイエス様のようにもてなすことは、聖書の教えそのものである。
 新渡戸稲造は、名著『武士道』(1900)の第十六章「武士道は今なお生きているのか」で、以下のように記している。
 「アメリカ的またはイギリス的形式のキリスト教は―その〈創始者〉の恩恵と純粋よりもむしろアングロサクソン流の気まぐれや空想を伴っている―〈武士道〉の幹に接木するには貧弱な接芽(つぎめ)である。新しい信仰の伝播者は、幹も、根も、枝もすっかり根こそぎにして、〈福音〉の種をその惨害をうけた荒土にまくべきであろうか。こんな思い切った方法も、可能かもしれない―ハワイでなら。そこでは戦闘的教会は、富そのものを略奪して集め、先住民種族を絶滅させるのに完全な成功を収めたと、つよく主張されている。しかしこんなやり方は、日本では全く断々乎として不可能である。―いな、それはイエスご自身地上にその王国を建てるに当たって、決して採用されなかった方法である。」
 
 ここで新渡戸の主張しているのは、英米流(西洋流といってもよい)のキリスト教は、伝道先の文化伝統のすべて(宗教、道徳、芸術、風俗その他)を軽蔑し、根こそぎ破壊して、その荒地に自分たちの福音の種をまくのだが、武士道の伝統のある日本ではそれではだめだ。武士道の幹(台木)に接木するに価するキリスト教は、日本人に神から直接啓示された純の純なるキリストの福音でなければならぬ。新渡戸の心に浮かんでいるのは、同級生内村鑑三の無教会であることはまちがいありません。
 そして新渡戸は、著書『世渡りの道』の中で以下のように書いています。
 老婦人が道端でお地蔵さんを拝んでおりました。「お地蔵さんを拝んでいるのを見ると、お地蔵さんは何の功徳(くどく)(恵みを施す)もしていないのに、お地蔵さんを拝むなんてつまらないことをしている者がいるものだと思う人もいるかも知れない。けれど、自分はそうは思わない。…言葉すら発しない地蔵さんにですら、一生懸命になって拝む。だとすれば、地蔵さん以上のものに対すれば、どのようにそのお婆さんのお祈りは進むのだろうか。もう一歩進めて、本当の神様の存在を知ったならば、その信仰、向上心というのはどれほど進歩するであろうか、ということをつくづく思った。だからどれほど立派な人に磨き上がっていくことだろうかと思った。ですから、彼女の向上心を尊重する意味を大いに見ました」と。つまり、その人の思いに合わせて、向上させようと新渡戸は願ったのです。
 佐藤全弘『新渡戸稲造と歩んだ道』(教文館)

 イエス様は、復活したご自分のことを完全に信じない弟子たちに対して、焼き魚を食べ、実体のある存在だと納得させた。人の中にある高きを目指す志を、主イエスは認めておられたのだ。私たちも武士道のある日本の気高さを認め、相手を尊重しながら福音を伝えよう。

 内村鑑三の武士道論
 「武士道は日本国最善の産物である。しかしながら武士道そのものに日本を救うの能力(ちから)は無い。武士道の台木にキリスト教を接(つ)いだもの、そのものは世界最善の産物であって、これに、日本国のみならず全世界を救うの能力がある。今やキリスト教は欧州において滅びつつある。そして物質主義にとらわれたる米国に、これを復活するの能力が無い。ここにおいてか神は日本国に、その最善を献じて彼の聖業を助くべく求めたまいつつある。日本国の歴史に、深い世界的の意義があった。神は二千年の長きにわたり、世界目下の状態に応ぜんがために、日本国において武士道を完成したまいつつあったのである。世界はつまりキリスト教によって救わるるのである。しかも武士道の上に接木されたるキリスト教によって救わるるのである。」
 この文は新渡戸の『武士道』が刊行されてから十六年後の文で、新渡戸の本の影響は歴然たるものがある。

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